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クラシック音楽夜話 Op.44=2002年7月5日(金)
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1.モーツァルト Op.626 「レクイエム」 ニ短調 (1)
2.高野喜久雄作詩 高田三郎作曲 「水のいのち」
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はじめに
昔昔、musikerは、高校、大学、社会人1年の合計8年間だけ合唱団で歌っ
ていました。色んな経験をして楽しかったけれど、ある理由により、歌うの
を止めました。歌が嫌いになったわけでもない。機会があればまた歌って
みたい。その私が最も歌いたい海外作品と日本の作品を、今日は語ります。
すこし長いけれど、ご容赦下さい。
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1.モーツァルト Op.626 「レクイエム」 ニ短調 (1)
★1989年7月、カラヤン氏逝去時の思い出と「レクイエム」
★ベーム氏とカラヤン氏のテンポの違いに驚く
★カラヤンメモリアルコンサート
★ジュスマイヤー版、バイヤー版、etcとこだわる意味はあるか?
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★1989年7月、カラヤン氏逝去時の思い出と「レクイエム」
1989年7月、ウィーン滞在中に、指揮者カラヤン氏の訃報を聞きました。
え?あのカラヤン氏が亡くなった??
翌日、ウィーン国立歌劇場には、カラヤン氏を追悼する、黒い幕が(旗?)
飾られていました。音楽の都ウィーン。偉大な指揮者を称えるのはごく当た
り前なのでしょうが、まるでウィーン全体がカラヤン氏の死を悼んでいるよ
うな気がして、妙に感動したのを覚えています。
数日後、ザルツブルク大聖堂の掲示で、その夜カラヤン氏の葬儀が行われれ
ることを知りました。ウィーンフィルによる(指揮者の名前は忘れましたが、
アバド氏だったかもしれません、、)モーツァルトの「レクイエム」でミサが
行われるとのこと。
ザルツブルクでその日会った老ヴァイオリニストP氏(このメルマガに何度も
登場する元ウィーンフィルコンサートマスター)は参列すると言っていました。
何度もカラヤン氏のもとで演奏した経験のあるP氏。とても寂しそうでした。
私も参列したかったけれど、夕方フランクフルト経由で帰国するため不可能
だったのが今でも悔やまれます。
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★ベーム氏とカラヤン氏のテンポの違いに驚く
「レクイエム」を最初に聞いたのはレコードで、カール・ベーム指揮ウィーン
フィルの演でした。合唱団で歌っていたものの、まだ日本の曲しかテイストに
合っていない頃、何気なく買ってきたレコードでしたが。聞いたとたんにその
魅力にとりつかれました。なんて、澄んだ音楽なんだろうと。
隣の部屋の音さえ聞こえそうなアパートの四畳半の部屋で、近所の迷惑もか
えりみず(当時は隣の部屋の音には比較的寛大だった)音量一杯上げて聞き
ました。何度も何度も。
数年後、社会人となった私は、新聞の評論を読んでカラヤン指揮のによる
「レクイエム」の新しいレコードを買いました。テンポが早いと記載があ
り、心得ていたものの、実際ベームと比べ予想以上にテンポが速く驚きまし
た。有名な「キリエ」がベームの2倍(とまではいかないがそんな実感)ほ
どテンポなのです。最初は違和感を感じ、とんでもないと思いました。
でも、何度も聞くうちに、どんどん引き込まれ、いつか私はカラヤン氏指揮
のこの「レクイエム」のテンポが標準となっていました。
そのカラヤン氏のミサで「レクイエム」が演奏される。何か深い結びつきが
あると思えてなりません。そして、大変不謹慎な表現かもしれませんが、こ
の日モーツァルトの「レクイエム」が宗教曲であることを、初めて実感しま
した。それまで私はこの作品を宗教曲であると微塵も意識して聞いていなか
ったわけです。
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★カラヤンメモリアルコンサート
今私の手元には、DVDがあります。
カラヤン氏没後10年の追悼演奏会の模様を収録しています。
指揮 クラウディオ・アッバード
管弦楽 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
合唱 スゥェーデンラジオ合唱団
ソプラノ カリタ・マッティーラ
アルト サラ・ミンガルド
テノール ミヒャエル・シャーデ
バス ブライン・ターフェル
会場 ザルツブルク大聖堂
演奏会形式ですから、音楽だけです。しかし、追悼演奏、しかも教会という
ことで、演奏が終了しても拍手はありません。会場最前列に座るカラヤン
夫人も映っています。
この映像は、私のように「レクイエム」を宗教曲として意識していない不届
きものに、宗教曲であることを、思い知らせてくれます。
スウェーデン・ラジオ合唱団の洗練された演奏、秀逸なソリスト、ベルリン
フィルの控えめだけれども存在感のある音色。そしてアッバード氏の指揮。
確かCDでも発売されているはずですが、DVDをお持ちの方はぜひ、映像
でご覧下さい。
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★ジュスマイヤー版、バイヤー版、etcとこだわる意味はあるか?
モーツァルトは「レクイエム」を、死の間際まで書き続けました。しかし、
完成できそうになかったため、妻のコンスタンツェが協力を色々な人に
頼むため走り回りました。
本来は一番の弟子であるジュスマイヤーがモーツァルトの意志を受け継ぐべき
存在であり、モーツァルト瀕死の病室に集まり、数人が彼の意志を確認してい
ました。ところが、コンスタンツェはどうしたことか以前モーツァルトの弟子
だったヨゼフ・アイブラーに「レクイエム」の完成を依頼します。しかし、彼
は「ラクリモサ」の管弦楽部の数小節を作曲した後、手を引きます。そして、
結局彼女はジュスマイヤーに全てを託しました。(同DVD解説に記載。原文
はドイツ語、英語、フランス語)
このあたり、今隔週で発売されている「ジョーと飛雄馬」で21世紀の現代に
復活を遂げた、いわずと知れた劇画の名作「巨人の星」で、星雲高校の野球部
の監督をひきうける星一徹がオーバーラップしてしまいます。一徹は数々の著
名監督への依頼を断られた弱小の星雲高校野球部の監督を、あえて受けます。
「残りカスの監督なんて」、と飛雄馬は反対します。しかし、一徹は信念によ
りあえて引き受けるのです。すべては飛雄馬に真の野球、団体競技としての
野球を教えるため。
脱線しましたが、ジュスマイヤーの話をDVDの解説で読み、私はとても感動
しました。
「レクイエム」はモーツァルトが完成させた作品ではありません。晩年、健康
状態が思わしくなかったモーツァルトが、彼自身で完成させた曲は第一曲の
「入祭唱」のみ。他は、ジュスマイヤーを中心とした弟子たちが管弦楽部分を
作曲したり、スケッチを元に形にしたりしたものなのです。「サンクトゥス」
「ベネディクトゥス」などはモーツァルトのスケッチさえもない、ジュスマイ
ヤーの創作です(最終曲「アーニュス・デイ」の後に続く「聖体拝領誦」が、
「キリエ」と全く同じ曲なのもジュスマイヤーのアイデアかと、感心していま
したが、この形式は当時ウィーンの宗教曲で普通のパターンでもあり、事実
モーツァルトがこうするように指示していたと知り、驚いています)。
逸話はともかく、結局、くどいようですが、この作品はモーツァルトが完成
させたものではありません。はたして価値はないのか?その答えは、モーツ
ァルトの死後、実に210年もの間、この作品が演奏され、受け継がれてきた
という事実が、示しています。
長い間「ジュスマイヤー版」が標準とされてきましたが、その欠陥にたまり
かね(モーツァルトなら、こういう書き方はしなかったという予測)、学者、
研究者、演奏家などの手で、数々の改訂バージョンが登場しています。先日
「バイヤー版」を入手し聞いてみました。演奏者の解釈がテイストに合わな
かっただけかもしれませんが、どうも聞き慣れた「ジェスマイヤー版」の方
を私は好みます。
数ある版。研究としては貴重なのでしょうが、冷静に考えると誰でもわかる
真実。「レクイエム」はモーツァルト自身の手で完成させたさものでないと
いうこと。
研究は学者に任せ、一音楽ファンの私は、演奏者の取りあげる版を素直にう
けとめ、純粋に演奏を聞くことで、この曲と向き合いたい。なんなら、はっ
きりと、モーツァルト+ジェスマイヤー+α作「レクイエム」と記載すれば
良いではありませんか。それで何の問題があるのでしょう。事実、この作品
を聞き感動してきた私のような人が全世界に大勢いるわけです。作品から得
られる感動をこそ、大事にしたい、そう思っています。
そして、もしジュスマイヤーが寛大に、のこりかすの作曲者を引き受けなけ
れば、「レクイエム」は世にでることなかったかもしれません。彼はおまけ
に、この作品完成のあかつき、自分の名前は記載せず、あくまでもモーツァ
ルト作としました。それはひとえにコンスタンツェが、「レクイエム」作曲
依頼者から残りの報酬を得られるようにとの計らいだったといいます。粋で
「いよ!大統領!」と叫び、ステージに大根を投げ贈りたい気持ちです。
この美しい宗教曲は、宗教曲の枠を超えた永遠のクラシック音楽。何かに
挫折したときや、希望を失ったとき、きっと心のかてになるでしょう。
そして、私は、死ぬまでに一度だけ歌ってみたい。
(to be continued)
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2.高野喜久雄作詩 高田三郎作曲 「水のいのち」
日本を代表する合唱曲。これは演歌だ!
大学の合唱団では外国の曲やポピュラー音楽なども演奏しました。下手な合唱
団でしたが、指導者は今も現役で活動を続けておられる一流の合唱指揮者でも
あり、団の活動以外に色々な出演の機会を与えられ、ヘンデルの「メサイヤ」、
ベートーヴェン「第九」をはじめ、小澤征爾さん指揮による演奏会にも参加
せていただきました。
しかし、こうした蒼々たる演奏家との共演もさることながら、今最も心に残
る作品は、日本人作曲家のとてもシンプルな作品でした。私が当時歌った日本
の合唱曲は、和音によって音楽が進行する単純なものが多かったし、主役は
常に詩でした。その後西洋の合唱曲と係わるようになり、日本の合唱曲はどう
も音楽的に物足りなさを感じたものの、当時はやはり詩の意味のわかる日本の
歌びいきでした。
とりわけ心に残ったのが声合唱組曲「水のいのち」。
雨、水たまり、川、海、そして天に昇り雲となる海、という水の一生に、人間
の一生をたくした美しい詩。その詩に、きわめてシンプルなハーモニーと、控
えめなピアノ伴奏を加えた、きわめて観念的な曲。
各パート共難しい部分は全くない。しかし合唱曲として本当の意味で「歌う」、
つまり感動させるのが難しい作品。なぜか歌う人のすべての心を奪うのに。
この歌、合唱経験者なら誰でも知る名曲中の名曲、もはや古典の部類でしょう
し、最近取りあげる合唱団は少ないでしょう?
でも、この歌には、日本人の誰もが持っている「こころ」があります。浪花節
のような感情かもしれないけれど、その「こころ」とは日本人特有、いや、人
間共通の感情かもしれません。
つい先日まで、ワールドカップに歓喜する人々を、テレビ等で見てきました。
自国のチームを応援する、その気持ち。それは、日本人とか、外国人とかの
区別は全くない。まして家族、友人に対する気持ちならなおさら。みんな、人
との結びつきを通して、自分を見つめている。
それが「水のいのち」という歌で、考えさせられるのです。詩も素晴らしいけ
れど、あの水のようなメロディ、ハーモニー、ピアノ伴奏。たぶん、この歌を
この歌にしているのは、詩と音楽との融合がもたらすまさに「ハーモニー」で
ある、と強く感じています。
こんなに見事に感情に訴える歌、他にもあるような気がする?
合唱人は怒るかな? 怒るだろうな。
でもあえて私は言いたい! この歌は演歌です、と。
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無性に日本の合唱曲について書きたくなりました。数々のすぐれた作品があり
ますが、今回は高田三郎先生の「水のいのち」について全く理性的でないコメ
ントを書きました。先生の作品は、いずれも詩との結びつきが強く、曲は常に
シンプル。フィナーレもパターンが決まっているので、わかりやすい。しかし
演奏者をとことん感動させます。一方、演奏で感動させるのは極めて難しい作
品でもあります。
モーツァルトの作品も同様に、感動させられる演奏をすることは難しい。
「レクイエム」はどこか宗教曲から超越した作品のような気がします。音楽の
美しさはいうに及ばず、全体に漂うミステリアスさ。そしてあのドラマチック
さは、虜にさせられる音楽で。今週は書ききれなかったので、「レクイエム」
の音楽については次回語ります。
ホームページはまだリニューアルしていません。もうしばらくお待ち下さい。
次週Op.45まで、お元気で。