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   クラシック音楽夜話 Op.68 2002年12月22日(日)

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静かに過ごしたいSilent Night and Holy Night

1.ひとりごと 〜ラジオなんて大嫌いさ(なーんちゃって)〜
2.モーツァルト 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 K.618

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1.ひとりごと 〜ラジオなんて大嫌いさ(なーんちゃって)〜

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クリスマス。もう、そういう時期だったなぁ。

そういえば最近FMで流れる曲はことごとくクリスマスモードで、山下達郎、
ユーミン、ジョン・レノン、その他思い出すだけで面倒になるくらい多くのク
リスマスにちなんだ歌がガンガンかかっている。

職場にはラジオが流れている。いわゆる「ながら」仕事状態だ。

かつて「ながら」ということばが流行っていたが、その昔深夜放送を聞きなが
ら受験勉強をしていた世代として懐かしい。受験勉強という名目で私の場合は
「オールナイトニッポン」でロック、フォークを聞き、パーソナリティのおし
ゃべりに耳をかたむけていた。ラジオは大きな情報源であり、ラジオを聞き、
少ない小遣いで買うLPを選定していた。

だから「ながら」で仕事ができるなら結構、と喜ばねばならないはずなのに、
今私は喜んでいない。仕事の邪魔になるのだ。仕事に集中していない証拠だ!
と、お叱りを受けるだろうが、邪魔になるから仕方がない。なぜか?

「好きな」曲が流れてこないからだ。??

ゴーマンである。小林よしのり氏にも負けぬほどゴーマンだ。
自宅の家でもあるまいし、外で、聞きたい音楽が聴ける環境を望む方が間違い
だもんね。

「聞き流せばいいじゃん?」(「じゃん」といういいまわしはもともと横浜あ
たりのことばだと横浜出身のうちのピアノの先生から教えてもらったけれど、
いまや全国区になった)

といわれても無駄だ。

聞き流せないからだ。私は慢性音楽過敏症という病名(まだ医学界では発表さ
れていないが、近いうちに老舗レコード会社の主任クラスの研究員による研究
が国内ではなく海外で認められ話題になるだろう)であり、音楽という名のつ
くものすべてに敏感に反応してしまう。好きであろうと嫌いであろうと、音楽
をじっと聞く、まるでパブロフの犬のように反応するのだ。

何もクラシックだけかけろとはいわないし、サイモン&ガーファンクルや
ビートルズ(カバーではなくオリジナルね)ばかりじゃFMだって困るしね。
J-POPSやJ-ROCK(こんなことばあったっけ?)もいい。ほとんどの曲は興
味はわかないが、中には「お!」と驚く曲もある。感覚に合えば文句はいわな
い。良い曲なら聞き流せる。おかしな感覚かもしれないが私はそうだ。でも自
分の感覚に合う曲をラジオはかけてはくれない。感覚に合わない曲はどうして
気になる。

日頃私は次のようなことばをぶつぶつと仕事をしながら吐いている。

「おいおい、その転調はないだろう」
「なんで前後のつながりのない間奏がはいるかな」
「今の歌は日本語の歌詞なのだろうか、何を言っているのかわからん」
「下手くそな英語の発音するくらいなら英語の歌詞なんかいれるなよ」
「汚い声=個性的??か」
「ジョン・レノンの歌を中途半端にけだるく歌うな!だからビートルズの歌の
カバーは嫌いなんだ!」
「日本語のアクセントがなっていない」
なんとイヤなおじさんだろう。
そばにいる職場の人からは不気味に思われているに違いない。

時には
「いいかげんにしろ!」
「ふざけんな!」
と罵声を浴びせる、ラジオに向かってね。たまたまそばにいる人は私に怒られ
ていると思い、怪訝な顔をしたり、表情を曇らせることもある。ゴメン。

何年も前には、歌の話題で職場の人に話かけたこともあるが、あまりに私の考
えが独断と偏見に満ちているので誰も相手をしなくなった。それでも相変わら
ずはひとりごとをぶつぶついっている。

ふだん「音楽は自然体で聞くべき」などと言っている張本人が、ことラジオで
流れる曲に関しては実に分析的に、頭で聞いているのだから始末に負えない。

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ラジオが嫌いな理由はもうひとつある。同じ曲ばかり流れるからだ。プロモー
ションで歌を売る現代音楽業界の常識なのでラジオなどのメディアの役割とし
ては仕方がない。ヒット曲はいまやCM、ドラマや映画とのタイアップなしに
は生まれないのだから。でもなぁ。

歌がいつの間にか頭にインプットされ、知らぬうちに口ずさんでしまうことだ
ってある。
ついに
「この歌、意外にいい歌ではないか、、」
となる。わー、全く不本意だ!

私はラジオに抗議したい。これはジョージ・ハリスンのアルバムタイトル曲
"Brainwashed(洗脳)"に等しいではないか、と。(余談だが日本で発売さ
れているこのアルバムの日本語タイトルが「ブレイン・ウォッシュド」となっ
ているのを昨日発見した。私は輸入盤を買ったので知らなかったんだが。これ
英語の発音では「ウォッシュト」になるんでないかい(今度は北海道弁)。英
語音声学的にもそうだがなぁ。と、いつも余計な茶々を入れてしまうのが私の
悪い癖、、)

「クリスマスなんて、大嫌い!!なんちゃって」という歌の声を聞いて、チュ
ーブの新曲かと勘違いしてしまった(ボーカルの声が似て聞こえたのは私だけ
だろうか?)。ついに彼らも夏のグループから冬に進出したのか、、と感無量
だった。が、歌っているのはクレイジー・ケン・バンドという全く別のグルー
プらしい。

それにしても毎日かかるはかかる、先日は午後だけで三回聞かされた。最近仕
事で帰宅が遅いのでテレビを見る時間などないけれど、朝「やじプラ」を見て
いると合間J-PhoneのCMで流れていたあの歌だった。今日オリコンをチェッ
クしたら8位だとさ。

歌としては悪くはない。メロディも楽しいし、タイトルも笑わせてくれる。彼
女とは呼べない関係の女性にアタックするのは今日がチャンス!と息巻く世の
男性の普遍的な熱情を歌っているという点には共感するところもあるが、若者
たちよ、頑張ってくれ、、、と傍観者的発言をさせていただこう。それにして
も最後の「ハレルヤ」という部分、どうしてヤにアクセントをおくかな?アク
セントや発音にうるさいおじさんは気になるんだけど、、、。

「ク・リ・ス・マ・ス・なんてー、だ・い・きらいさぁ〜」

職場のラジオのせいで私の頭には常にこの歌のメロディと歌詞が流れている。
おかげでふたつのメルマガ配信がいつも以上に遅れてしまったではないか。
(影の声:「関係ないって」)

いっそのこと、私の好みの曲しか流さないという規則でも提言しようか。でも
そうすると職場の人は「そして誰もいなくなった・・・」状態になるだろう。
毎日ベートーヴェンばかりだとねぇ。

とにかく、本当にラジオなんて嫌いだ(なんちゃって)。

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2.モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 k.618
  W.A. Mozart Ave verum corpus KV.618

元来クリスマスとは、キリストの誕生日を皆で静かに祝い祈る日のはずです。
欧米の人々は我々日本人が想像している以上にこの日を静かに過ごしています。
キリスト教徒ですから当然かもしれません。

私にとってクリスマスとは「家族の日」です。子供時代は父母と兄と共に、家
庭を持ってからは五人で過ごす特別な日でした。基本的にクリスマスは家族以
外の人と過ごすものではないという感覚があります。それは正月も同じ。いつ
もこの時期は家族の事を思い出す、いや、思いたい時期でもあります。

クリスマスにちなんだ曲はあまりにも華やかすぎて一人だけの夜に似合いませ
ん。静かに「何か」に祈りを捧げもの思いにふけるときに聞きたい曲は?

そう、モーツァルトのこの曲しかありません。

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モーツァルトが残した最も美しくそして哀しい合唱曲「アヴェ・ヴェルム・コ
ルプス」は聞く人すべての心をうつでしょう。この短い音楽の中に、モーツァ
ルトの音楽すべてが凝縮されているといっても大げさではありません。

歌詞の内容を調べてみました。

  Ave verum corpus,
  めでたし、まことの御体
  natum de Maria Virgine,
  おとめマリアの御子として生まれたお人
  Vere passum, immolatum In cruce pro homine,
  真の試練を受け、人間の罪のため十字架にかけられた
  Cuius latus perforatum unda fluxit et sanguine;
  引き裂かれた脇腹から流れ出る血
  Esto nobis praegustatum in mortis examine.
  私たちのため、先に最後の審判をお受けください
  (私たちの前に最後の審判をお受けくださることに、感謝申し上げます
   というような意味でしょうか?)
※和文は英語や日本語の資料を見てmusiker流にアレンジした迷訳です
  実際にはこの後、まだ次の2行があるのですが、モーツァルトは省略しま
  した。
  
  以下省略された二行
  O Jesu dulcis, O Jesu pie, O Jesu Fili Mariae,
  優しく慈悲深いイエス様、おとめマリアの御子
  miserere mei. Amen.
  我らをあわれみたまえ


ウィーンに来てからモーツアルトは教会音楽から遠ざかり、管弦楽曲、交響曲、
室内楽曲、協奏曲、そしてとりわけオペラに精力を注ぎました。ザルツブルク
大司教に仕えきれなかったのも自由に音楽を書きたかくて仕方がなかったから
に他ならず、まるで水を得た魚のように、数々の傑作を生みました。

時は流れ、1791年、つまりモーツァルトが亡くなる年、レオポルト・ホフマ
ン(Leopold Hofmann)というウィーンのシュテファン寺院の音楽監督が重
病となります。モーツァルトは金に困っていたこともあり、定収入を得るため
後任の音楽監督の座を狙います。結果彼はほとんど情熱を失っていた教会音楽
への興味を再び呼び起こすことになるのです(皮肉にもホフマンはモーツァル
ト死後93年まで生き延びるのですが、、、)。

でも最後の年に書いたのは二曲だけ。一曲は未完となった「レクイエム」、そ
して唯一完成したのがこの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」です。

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小曲です。演奏時間は3分半足らず。
単純です。伴奏は弦楽器とオルガンのみ。合唱は一部を除き全パートが同じ歌
詞を同時に歌います。宗教曲におなじみのポリフォニー(各パートが別のメロ
ディを歌う形式。音が複雑に絡み合いながら繊細なハーモニーを奏でる。宗教
曲に限らず音楽は多かれ少なかれこの形式で作られていると思って間違いない)
形式ではないウルトラ単純な合唱曲です。

モーツァルトが晩年になぜこのようにテクニックの上でも決して難しくはない
曲を書いたかは謎ですが、ヒントはあります。彼はこの曲をウィーン郊外のバ
ーデンにある教会の合唱団指揮者をしていた友人に捧げました。その合唱団向
けに曲を単純な仕組みにした、というような噂もあるようです。真実は誰も知
りませんが。

エピソードはともかく、曲が単純であっても「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
が真にこの世の音楽から超越するほどの美しさであることはいうまでもありま
せん。美しさを生んでいるのは、まさに歌詞・メロディ、そして四声が作り上
げる和声にあります。

二小節にゆっくりとした前奏に続き、始まる合唱のハーモニー。すぐに身震い
してしまいます。その震えは歌の終わるまで止まりません。人間の声の清らか
さ美しさをこれほど引き出す絶妙な和音構成が他にあるでしょうか。ことばを
ていねいに、かみしめるように歌うフレーズ。優しさに満ちています。
中盤の痛ましい歌詞の箇所は、まさにその雰囲気を彷彿させる和音展開です。
短いながも心にしみてきます。
クライマックスも見事。このあたりになると本当に涙がこぼれ落ちそうな感動
がこみあげてきます。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス」に関してはだた絶賛の言葉しか書けません。
(歌う側は大変だろうと思いますよ。この歌を感動的に演奏するのは相当難し
い)

今夜はテレビなどそっちのけで静かに、ただ静かに、心ゆくまでこの歌を聞き
味わいたいものです。

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【あとがき】

キリスト教では時期によって演奏御法度の曲があります。オーストリアで仕事
をしていた頃いろいろ聞かされました。だから、十字架に磔になったイエスを
歌う「アヴェ・ヴェルム・コルプス」はキリスト生誕を祝うこの時期にふさわ
しくない曲かもしれません。

でも、生きる喜び、家族(人間)への優しい思いを静かに感じるための最高の
音楽として今日この歌を取り上げてみたくなりました。

第九の話題へのメールはごく少数でしたので、もう少し待った上で次号でとり
あげます。

相変わらずウィルスメールは続いています。昨日は10通届きました。
こういうご時世ですから、読者の皆さんもどうかご注意ください。感染を防ぐ
ためにソフト等でウィルスチェックをされることをお勧めいたします。感染し
ているとご友人等に思わぬ迷惑をかける加害者になってしまうこともあります。

今号は諸事情によりなんと3日遅れの配信でした(新記録!)。すみません!

ではOp.69で。